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Selfishly

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久遠の輪舞(後編)act1




~~~~~『 久遠の輪舞・後編 』Act1 ~~~~~





「准将…、こちらの報告書にサインを…」
 ついと差し出された書類を、ロイが無言で受け取り、無表情に確認をしていく。
 数枚捲った後、1枚の書面をじっと見続ける。
 そんな上司の様子に、ホークアイは口も挟まずに、目線を俯かせて待っていた。
 そして、声無き深い嘆息を吐いたかと思うと、サラサラとサインをして、
 ホークアイに差し出してくる。
「ありがとうございました。 では」
 礼儀正しい言葉を告げ、沈鬱な表情でそれを受け取った後、
 彼女は静かに扉を閉めて部屋を出て行ったのだった。

 その書類には、近頃災害での事故で判明した、死傷者の名前が記載されている。
 この書類を事務室へと提出すれば、それがそのまま各地へと伝達され、
 記録が書き換えられていくのだ。

 死亡者の記載には、十数人の不幸な人々の名前が並んでいる。
 そう…。エドワード・エルリックとアルフォンス・エルリックの名前も。
 記録には、こう書かれている。
『天候不良の強風の為、横倒しになった列車の事故で、橋を運行中だった車内から、
 転落し死亡した者の中で、行方不明者が数人。 増水された川の水流の為に捜査が難航し、
 遺体を発見できず、車内に残された遺留品から、行方不明者の氏名が判明した者…』

 そして、世の稀代の若き錬金術師の名前は、この国から消え去った。

   これが、ロイに託されたシナリオの結末なのだった…。















~ Allnachtlich im Traume ~ 
          《夜毎君の夢を》


 ***

「もう少しだ、鋼の、しっかりしろ!」
 力尽きそうな小柄な身体を励ましながら、ロイは吹きすさぶ吹雪の中を進んでいく。
 目指す先には、予てから確認していた避難場所があるのだ。
 追われている身としては、一時凌ぎに過ぎないが、この吹雪なら敵方も動けない状態だろう。
 吹雪が治まるまでの間、潜む場所が有ればいい。
 軍で鍛えてきた方位感を頼りに、ロイは疲れと寒さで麻痺した身体を叱咤しながら、
 雪に埋もれて進んでいく。
 霞みそうな意識が保てているのは、抱きかかえている身体の異様な熱さのせいだ。
 ロイは、ここまで気づけなかった自分の迂闊さに悪態を吐きながら、一刻も早く、
 子供を休ませる場所をと、心を逸らせる。


 ***
 冬将軍の到来で、比較的温かい東方でも、そろそろ本格的な冬支度が必要な季節になってきた。
 寒さから遠ざかるように移動してきた兄弟二人が、中継地点の東方に寄ったついでに、
 久しぶりの司令部に顔を出している。
 
「潜入捜査ぁ?」
 ひょっこりと顔を出した少年を目にして、ロイは好都合とばかりに話を持ち出した。
「ああ、押し付けられた情報だが、言ってきた相手が相手でね」
 不快そうな表情で告げてくる相手に、エドワードは成るほどねと、判ったように頷いてみせる。
 どうせ、ロイの昇進を妬んでいる、どこぞの煩方のお偉いさんからなのだろう。
「それが困ったことに、大佐一人を指名してきたのよ。 いくら隠密裏に行う為と言っても、
 大佐の立場の者を、一人で向かわせるなんて、無茶が過ぎるわ」
 困ったように嘆息をつくホークアイに、思わず憐憫の情を抱く。
「中尉…、あんまり心配すんなよ、なっ?
 大佐って十分図太いし、こすっからしいとこがあるから、
 そんなに心配しなくても、大丈夫だって」
「鋼の…、聞こえてるぞ」
 憮然とした表情で、潜入する本人より、それを心配する相手のみに気遣いを見せるエドワードに、
 不機嫌に注意をする。
「あっ、聞こえてた? ははは、ごめん。 ついつい…さ」
 悪気なく笑って返す相手に、ロイは諦めたように嘆息する。
「まぁ、君の暴言は今に始まった事でも無い。 躾けの行き届かない子供にまで、
 構っている暇は無いからな」
 そうさらりと逆襲して、胸の溜飲を下げて話を続ける。
 予想どうり、『子供』の単語に、むっとした表情で、自分を睨み返してくる相手がいるが、
 いつまでも構って遊んでいると、中尉から深刻な報復が飛んでくるだろうから、
 頃合いを見計らって切り上げておく。
「エドワード君、これは冗談では済まされない事なのよ。
 本来、潜入捜査は、細かに段取りを組んでから行うものなの。
 それもせずに潜入するなんて、命綱無しで崖から飛び降りるようなものよ」
 窘めるように語られた言葉に、エドワードも少しだけ反省の態度を示す。
 それを見とめて、ホークアイは話を続けていく。
「で、取り合えず護衛だけでもと思ったんだけど……」
 そこまで話して、困ったように嘆息を吐いている彼女を見ながら、
『綺麗な人って、どんな表情でも綺麗だよな…』と、妙な感心をしながら、
 話の続きを他人事のように聞いていた。
「上がそれを認めてくれなくてね。 まぁ、そのまま目障りな人間が居なくなれば、
 好都合とでも思っているんだろう」
 これまた、他人事のように話をしてくるのが、潜入する当人ときている。
「大佐、不埒な憶測を簡単に口に出さないで下さい」
 途端にホークアイからの叱責が入り、ロイが肩を竦めて返している。
 ――― 口に出すのは駄目だけど、思うのは良いわけだ。
 エドワードは言葉に含まれた真意を悟って、さすがにこの上司の部下だけはあると、
 思わずこの女性の強かさを再認識させられた。
「まぁ、良かったじゃないか。 その心配もどうやら解消されそうで」
 含み笑いをしながら、意味ありげにエドワードの方に視線を向けてくる。
「ええ…、本当なら巻き込みたくはないんですが…。
 今回の場合は止む終えません。エドワード君、宜しく頼むわね」
「という事だ、直ぐに準備にかかってくれ給え」
 
 数瞬の間、室内には沈黙が敷かれる。

 そしてその後に、エドワードの大声が沈黙を破るのだった。
「ええー!! って、俺が行くわけー!?」
 いきなりの矛先に、エドワードがアタフタと慌てていると、
 ホークアイが済まなさそうに告げてくる。
「ごめんなさいね。 軍部の人間からは、同行を止められているけど、
 軍属の人間は駄目だとは指示に入ってなかったの。
 余り危険な事には巻き込みたくなかったんだけど、今回は情報の信憑性を
 確認するだけの任務なんで、悪いけど大佐の護衛に付いて行ってくれるかしら?」
「という事だ。 鋼の、これも任務の1つだ。宜しく頼む」
 鸚鵡のように一つのフレーズを繰り返す男に、不満満載の表情を作るが、
 ホークアイの申し訳無さそうな表情には弱い。
「わかった…、アルに話してくる」
 そう了承を伝えるしか、エドワードの取るべき態度が見つからなかった。


 
 行き先まで列車に揺られながら、ロイから捜査の概要を聞かされている間も、
 エドワードの仏頂面は変わらない。
 ロイが特にそれを気にした風も無いのが、更にエドワードの気持ちを苛立たせていた。

「と、ここまでだが、何か質問は?」
 エドワードの不躾な態度に怒るでもなく、かといって、別に機嫌を取って宥めるでもなく、
 ロイは極々普通と変わらずに接してくる。
「別に無いよ…」
 そう答えて、素っ気無さ過ぎたかと、早口で言葉を継ぐ。
「あんたの説明は、いつも分かりやすいから……な」
 語尾は、ため息と共に吐き出される。
 相手が変わらないのに、エドワードだけが不機嫌を装い続けるのは難しい。
 別に、本当に迷惑だと思っているとか、嫌な事を押し付けられたとかは、
 全然思っていないのだから。
 ただ、ちょっとだけ。 そう、ほんの少しだけ、余りに変わらぬ相手の出方を
 図ってみたかっただけなのだ。
 エドワードにとってロイは、掴みにくい相手なのだ。
 エドワードがどんな感情を向けたとしても、するり、さらりとかわしてしまう。
 それが如何にも、自分が子供なのだと思わせられる気がして、余計に反応を大にして、
 突っかかる要因になっているのだ。
 が、ではロイに、子ども扱いをしているのかと問い詰める勇気は…、まだ持ち合わせてはいない。

 そんな事を考えながら、ふと黙り込んでいる相手を見ると、
 目を瞠って自分を見つめているのに気づく。
「? 何だよ、何か妙な事でも、俺、言ったか?」
「…いや、君が珍しく、私を褒めてくれたようなんでね」
 そのロイの言葉に、エドワードが首を傾げる。
 ・・・ そんな事言ったっけ? ・・・
 暫くの間、先ほどの自分の言葉を反芻するが…、別に褒めたと言う程の事は無い。
 ただ単に、事実を認めたに過ぎないだけなのに…。
 それでも、そんな他愛無い事で、機嫌良さそうに話しかけてくる相手を見ていて、
 エドワードは普段邪険にしている自分の態度を、少しだけ恥じる気持ちになった。
 それに、と考える。 こうして二人だけで出かけるのは初めてだった。
 なら、以前の自分が望んだように、相手に近づいていける機会も持てるかもしれない。
 ほんの少しでも…。
 
 その後の行程は、エドワードの反省が効を奏していたのか、スムーズに協力し合って進んでいく。
 
 そして漸く、その捜査に指定されていた村に足を踏み入れてみれば、
 二人とも剣呑な気配を感じて、緊張を強いられる状況だ。
 どうにか一軒の飲み屋兼宿場に、部屋を借りて落ち着くが、現状は穏かには程遠い、
 不穏な気配に満ちている。
「ロイ…、ここやばいぜ」
 小声で話すのは、盗聴の恐れがあるからだ。
「ああ、どうやら情報はガセでは無かったようだが、知らされていない事もあったようだな」
 思案しながら、今後の事を考えているような相手の様子に、エドワードは黙って待つ事にした。
 幾ら荒事には慣れてきたとはいえ、こういう事はロイの専門分野だ。指示が決まるまでは、
 無用に先走らないほうが良いだろう。
 そうして行動が決まったのか、ロイが顔を上げ、ふと傍で大人しくしているエドワードを見て、
 小さく笑いを浮かべてくる。
「何だよ? ここは笑うシーンかよ」
 暢気な上司の様子に、エドワードは呆れたように憎まれ口を叩く。
「いや、中々肝が据わっているな…と。
 普通なら、大の大人でも、囲まれている中では、少しは動揺や怯え位はするだろうに。   
 君は、かなりの大物だな」
 からかい口調に腹が立たなかったのは、そう話すロイの表情が、心から満足そうに
 しているように見えるからだった。
「少し電話を借りてくるよ。 それと食事は、食べに出ない方が無難のようだから、
 持ち込んだ食料を食べていてくれ。 味気ないが、仕方ない」
 そう告げ、部屋を出て行った。
 独りになったエドワードは、自分に振り分けられたベッドの前まで歩いていくと、
 パフンとうつ伏せに転がる。
 沈み込む体が妙に重く感じるのは、緊張して疲れているからかも知れないな…と
 うつらうつらと漂う眠気の中でそんな事を思う。
『そうだよな…何でだろ、あんまり怖いとか、不安に思ったりしてないよな、俺…』
 慣れない状況の中、いくら度胸があるとは言っても、エドワードとて普通の人間だ。
 もう少し、不安に思っていてもおかしくは無い。
『…そうか、大佐が、…居るからだ…』 そんな思いが浮かんできたのは、
 眠りに沈む間際だったから、起きたエドワードがそれを思い出す事はなかった。

 注意深く周囲を伺いながら、ロイは階下に降りていく。
 深夜に近くなろうとしている酒場では、煩雑さと猥雑さが混沌とし始めており、
 エドワードを連れて食事に来なかった自分の判断に感謝した。
「済まないが、長距離電話をかけさせて貰いたいんだが?」
 入る時に顔を合わせた宿の親父に、そう声をかけると、無愛想な様子で、
 電話機の方へと顎をしゃくって見せる。
「どうも」
 短い礼の言葉を告げながら、向かうロイの背中に濁声が飛んで来る。
「料金はかけ終ったら、直ぐ支払えよ」
 その言葉に了承するように、ヒラヒラと背中越しに手を振る。
 そうして辿り着いた電話機の小部屋の扉を閉めれば、少しだけ下品な騒がしさが
 遠くなったような気がして、ホッとしながら受話器に手を伸ばし、暗記している番号にかけると、
 1度のコールで相手が出てくる。
 直通の電話だから、取り次ぐ交換手との遣り取りはない。
『はい?』
 落ち着いた聞きなれた声が耳に届いてくると、ロイの中で思わず安堵感が湧いてくる。
「やあ、無事に着いたよ」
『そうですか』
「でだね、出来るだけ早く戻りたいとは思うんだが、その前にナニーに頼んでおこうかと思ってね」
『何でしょうか?』
 明るく話すロイと対照的に、相手の女性の声はつっけんどんなまでに素っ気無い。 
「いや、庭に虫の巣が有ると話してただろ? それが思った以上に酷い状態でね。
 出来れば早急に駆除しておいて欲しいんだが」
 その言葉に、暫しの沈黙の後に。
『どれ位ですか?』
 と訊ねてくるのに、簡潔に返す。
「全部頼む」と。
 深い溜息が耳に届いたかと思うと。
『全部ですか?』
 と再度確認の言葉を聞かされる。
「ああ、全部頼む」
『…分かりました、直ぐに業者に頼んでおきます』
「ああ、頼むよ」
 会話をしながら、ロイはさりげなく酒場の店内に視線を巡らす。
 酒を飲んで馬鹿騒ぎしている者、賭け事に熱中している者。
 女と絡み合っては、賑やかな悲鳴を上げさせている者と様々だが、その誰もがロイの一挙一動に、
 気配を窺っているのがヒシヒシと伝わってくる。
『他には何かありますか?』
「そうだな…、出来れば裏庭の柵も見てもらってくれないか?
 そこから隣の猫が入って来ては、荒らしているようなんでね」
 ロイは困ったものだと言うように、溜息を吐いて語る。
『分かりました、そちらも直ぐに修理に人を寄越して貰います』
「ああ、何から何まで悪いね。 折角育てた花が荒らされるのは、忍びないからね。
 そうだ、綺麗に咲いた暁には、ナニーにもぜひ進呈しよう」
 楽しげにそう語ると、呆れたような吐息が耳に届いてくる。
『結構です。 私のような年寄りには、花など不要ですから』
 と、ピシャリと言い切られ、鼻白む。
「…そうか、残念だよ。 では、暫く電話が出来ないかもしれないが、
 くれぐれも庭にだけは気をつけておいてくれ」
『分かりました。 旦那様も、余り羽目を外しすぎませんように』
 しっかりと釘を刺されながら、ロイは気まずそうに受話器を置く。

 電話機の小部屋を出ると、待ち構えていた宿の主人が、電話代を請求してくるのに、
 ロイは札入れから代金を取り出して渡してやる。
「男前さんよ、女房にでもラブコールかい?」
 さして面白くも無さそうな表情で問いかけてきた言葉に、ロイは僅かに表情を引き攣らせて、
 とんでもないと言うように首を横に振る。
「いや、家で働いてもらってるナニーにさ。 年齢の割りに綺麗な方なんだが、とんと男っ気がない人でね。
 色々と心を砕いて上げているんだが、彼女のお気には召さないようだ」
「はん、綺麗な女ってのは、高慢ちきな奴が多いのさ」
 相手を小馬鹿にしたようなセリフに、ロイは力なく「そうだね」とだけ返して、部屋へと戻っていく。
 ・・・彼女にだけは聞かせたくないセリフだな。・・・・
 彼女を良く知っている者なら、決して口にしないセリフだ。
 知らないとは、幸いな事でもある。
 部屋に戻る廊下を歩いていくと、粗末な扉が所狭しと並ぶ中から聞こえてくる声に眉を顰める。
『どうも教育上にも、良くない場所だったらしい』
 場末の宿屋は、連れ込み宿を兼ねている所が多い。
 下の飲み屋の雰囲気からして、それ以上に荒んでいるのかも知れない。
 薄い壁では、中で何をしているかが筒抜けだ。
 ロイは部屋で待つエドワードを気の毒に思いながら、足早に帰っていく。

「おやおや…」
 ロイの杞憂は必要なかったようだ。
 中で待っている少年は、既に眠りの中の住人になっている。
 コートも脱がない状態でうつ伏せに眠っているところを見れば、待つ間に転がったまま
 眠ってしまったのだろうが、豪胆なことだ。 柔な者など、緊張しすぎて眠気など吹っ飛んでいるだろうに。
 邪気無く眠る相手の、上着を脱がせてやって、布団を掛けてやる。
 ロイは周囲から洩れ聞こえてくる声などシャットアウトしたまま、
 じっと様子を窺うようにして息を潜めておく。
 この状況で寝る訳にはいかないが、かといって身体を休めておかなければ、
 有事の時に思うように身体を動かせないのでは困る。
 冷え込みの激しくなってくる中、ちらほらと舞い落ち始めている雪を見つめて、
 深い嘆息を吐き出す。
 それは、明日の困難を憂えてもいるように見えるが、ロイとて急変する状況の全てが
 見通せているわけではないのだった。



(身体が熱い…) 
 吸い込む空気が、妙に生温く感じられて、不快感を煽っている気がする。
 エドワードは不快感を取り除こうと深呼吸しかけて、口を覆われた驚きで目を覚ます。
「しっ、声は出すな。 目が覚めたな、直ぐに動けるようにしたまえ」
 手の平の主がロイだと気づいて、エドワードは瞬間に硬直させた身体から力を抜くと、
 直ぐさま言われたとおりに、手早く身支度を整える。
「大佐?」
 小さな声で問えば、ロイは目線で窓の方を指し示し、先に出るようにと身振りで示す。
 ロイの指示を行動に移そうと窓に目をやって、数瞬だけ目を瞠る。 外が白く染め上げられているからだ。
 その後素早く、小さな錬成を起こして、階下までの階段を作ると、
 エドワードは理由は後だとばかりに、窓を乗り越して行く。 降りる最中に振り返った先では、
 ロイが扉に何かの錬成を施しているのが目に入った。
 エドワードが地面に辿り着いた時には、いつの間にか降り出していた雪が、足首まで埋まる程積もっている。
 そして、上を見上げると、自分に続いて降りてくる相手の姿が、雪で視界を塞がれながらも映っている。
 ロイが地表に降り立つや否や、再度の錬成で階段を消してしまう。

 暫くは宿から離れるのが先決とばかりに、歩を速める事を要求されて、視界が悪い上に新雪に
 足を捕られながらも、懸命に足を進めていく。
 そうして、やっと無人の駅の形ばかりの構内に入って、ホッと安堵の吐息を吐き出した。
「寒さは防げないが、屋根がある分、幾らかはマシだろう」
 漸く口を利いてきた相手に、エドワードは矢継ぎ早に質問していく。
「どうしたんだよ、いきなり?」
 寝起きで体温を奪われたせいか、どうにも寒さが激しく身に染みる。
「身分がばれたわけじゃ無さそうだったが、どうやら物取りの対象にされたようでね。
 下でごそごそと集まり始めていたから、危なくなる前に抜け出たほうが懸命だ」
 ロイの言葉に、エドワードが眉を顰める。
「そんなの、あんたと俺が居れば…」
「鋼の。君も気づいていただろうが、あそこには情報どおり、テロの一味が潜んでいる」
 ロイの言葉に、エドワードも頷く。 それは村に入っていた時から、感じていた事だ。
 余所者を訝る視線の中に、鋭く突き刺さるような視線が混じっていたからだ。
 だからと言って、国家錬金術師の自分達が二人も揃っているのだ、一味が襲ってきたとしても、
 引けを取る訳が無い。
 そんな思いが目に顕れいたのか、ロイが苦笑を返してくる。
「君が気づいた範囲は狭かったという事だ」
「…どういう事だよ?」
 判断の甘さを追及されたような気がして、エドワードはムッとなる。
「あそこに犯人の一味が居たんではなくて、村ごとテロ組織のアジトなのさ」
 ロイの話の内容に、エドワードがまさかと言うように、目を瞠る。
「村での暮らしはカモフラージュなのか、それ自体がそれぞれの役割なのかは判らないが、
 戦闘、非戦闘員は違えども、全員がメンバーである事は間違いないだろう」
「な、何でそう断言できるんだよ?」
 俄かには信じられない話だが、…この男がそう断言するのなら、確信があっての事だろう。
「まずは、電話に盗聴器が仕掛けられていた。 そんな装置を、普通の寂れた宿屋が持てる筈も無い。
 それと、居合わす人間の纏う雰囲気が一般人とは違う。目線や気配もな。
 まぁ後は、忍んで動いているときに聴こえてきた話し声や、中を窺う見張りの人間が
 ウロウロしていたからだが」
「えっ…いつ?」
 気配に敏感な方のつもりだったが、目を覚ますまで全然気づいてなかった。
「ああ…。 君はグッスリだったようだから、気づかなくても仕方ない」
 少しだけ笑いを含んだ言葉に、エドワードは思わず顔が赤くなる程の恥ずかしさを覚えた。
 護衛の立場のはずが、寝こけていて、敵にも気づかないようじゃ、役立たずと叱責されても、
 文句の一つも言えないだろう。
 居た堪れないように俯くエドワードの様子に、ロイは軽く言葉を返してくる。
「なに、気にする事はない。 君が優秀なのは変わらないさ。
 これは、経験がモノを言う状況だったから判った事だ」
 そう掛けられた慰めも、エドワードの心中の屈辱を解消してはくれない。
「…列車が来るまで、潜んでいられれば良いんだが」
 黙り込んだエドワードに気遣ってか、ロイは話を切り替えてくる。
「そうだな…」と力無く返しながら、そんなところでも、自分の幼さを気づかされたような気がして、
 益々落ち込んでしまうのだった。

 雪は朝に近づいて温度が上がり始めているのにも関わらず、降り止む様子を見せるどころか、
 更に勢いを増しているようだった。 火も起こさずに、戸外で潜んでいるなど、
 列車が来る前に凍死する方が早そうだ。
 それに…と、ロイは横に気丈にも小さく座り込んでいる相手を見つめる。
 幾ら、それなりの装備はしてきたとはいえ、成長しきっていない子供の身体では、
 体力を失うのが早くなる。
 今も、悴んで震えているのか、唇まで紫に近くなっている。
「エドワード、こちらに寄りなさい」
 頑なに距離を空けて自分を支えている様子はさすがだが、それもそろそろ限界に近いだろう。
 エドワードの様子からそう汲んで、ロイは声を掛けてみるが、エドワードは小さく首を振るだけだ。
 その強情さに舌打ちしながら、ロイは強引に引っ張って抱き込んでしまう。
「…!」
 言葉にも出せないほど驚いたのだろうか、パクパクと声無く口を開け閉めしているのが、
 何だか面白い生物を見ている気にさせられる。
「君が大丈夫でも、私が寒いんだ。 大人しく湯たんぽ代わりに抱きしめさせてくれ」
 そう告げると、暫くは居心地悪そうに身じろぎをしていたが、その内、
 静かに手の中に納まってじっとしている。
 腕に収めてから、やはりと思ったのは、随分と身体が冷え込んでいる事だ。
 触れる生身の部分が、氷のように冷たい。 
 まぁ、それはロイにしてみても同様だろうが。
 そうやって暫く互いの体温で暖を取っていると。
「? 君…、もしかしたら…」
 問いかけようとした言葉を、喉の奥に飲み込んだ。
 緊張感を走らせたロイの変化に気づいたのか、エドワードも瞬時に気配を抑えて、
 様子を窺うのに同調してくる。

「おい! こっちの方には居ないかぁ?」
 降り乱れる雪にかき消されなようにか、大声を張り上げて仲間に確認している男が近づいてくる。
「ちっ! どこに行きやがったんだ。 折角、久しぶりの上鴨だったのによう」
「んでもよ、どうやって部屋から出てったんだぁ? 見張りの奴は、姿見てねぇって言ってんのに」
「さーてね。 どうせ、あいつ等の事だから、女に構け過ぎてて、気づかなかったんじゃねぇのか」
 腰を振る下品な仕草をして、仲間同士で野卑た笑いを上げあっている。
「まぁどっちにしても、駅で張っときゃあ、村から出るのは無理だからな」
「ちぇ、損な役回りに中ったぜ」
「仕方ねぇさ。 ほれ、これでも飲んで見張ってようぜ」
 持ち出してきたのか、酒瓶を回し飲みし始めた男達を、そっと窺いながら、
 ロイは抱きこんでいるエドワードに視線を送る。
 すると、静かに頷いて、身体をゆっくりと動かしながら、その場を離れる準備を始める。
「いいか、私が合図したら、出来るだけ静かにこの場を離れるんだ。
 気づかれたと思ったら…、全速力で逃げるしかないな」
 そのロイの言葉に、エドワードが神妙に頷き返す。
 数人なら二人で十分だが、幾ら寂れた村とは言え、住民全員を相手にするには、少々天候不良で分が悪い。
 男達の気配から、こちら側から気が逸れている時を狙って、二人はそっと雪嵐に混じって、その場を動き出す。

 寒さに悴んでるせいか、思うように身体が動かない。 そんな風にエドワードが焦って
 足を運んでいる最中に、少しだけ遠くなった駅の方面から、怒声が上がり始める。
「鋼の! 走るぞ!」
 ロイも気配に気づいたらしく、エドワードに声をかけると、その次の瞬間には走り出していた。
「あっちだー!」
「おい! 仲間に合図を送れ!」
 派手に燃え盛る松明を振り回しながら、男達が騒ぎ立てている。
 次第に明かりが灯される家や場所が増えてくると、逃げる二人には不利な状況になってくる。

「ちっ、仕方が無い…」
 ロイは潜みながら、隙を見つけては合間合間に走り出すが、人海戦術に切り替えた相手が、
 わらわらと出始めて、このままでは取り囲まれるのも時間の内かと、覚悟を決める。
「大佐…、どうする?」
 エドワードもそんな状況に気づいているのか、訊ねてくる。
「鋼の、山を越えるぞ」
 端的な答えに、エドワードの表情が固まる。
「この様子では、駅どころか、右も左も公道は押さえられているはずだ。
 それに隠れる場所が無い道を移動するよりは、場所のある所を越える方が安全だ」
 穏かな山に三方を囲まれたように存在する村だ。
 奇しくも聳える山は、なだらかで裾野が広いおかげで、そう標高は高くない。
 自分達の足で越える事が難しいほどではないだろう。
 エドワードもそう考えたのか、特に異論を言ってくる訳でもなく、ロイの後を付き従ってくる。
 
 雪で視界は遮られはするが、逆に真の暗闇にはならずに済んでいる中、
 二人は鬱蒼と茂る樹林の中に分け入って進んでいく。
 昇るにつれ、村の概要がぼんやりと見渡せるようになってくる。
 どうやらあちらにも、多少は知恵が回る者が居るのか、燃え盛る松明の幾つかが、
 山を目指して進んできているようだ。
 ―― が、どちらにせよ、この天候では追跡するリスクは負わないだろうがな――
 ロイは記憶にある場所へと、方位感を頼りに進んでいく。
 ―― 昨日のうちに、逆側にも味方を手配しておいて、幸いだったな――
 こんな状況を予想していた訳ではないが、援軍が着くまでの保険として、
 山を挟んだ反対側の村にも、人を送るように手配しておいたのが命綱になった。
 頭の働く彼女の事だ。 吹雪が止めば、反対側からも偵察隊を送り込んで、
 様子を見に動かせてくるだろう。
 自分の思考に浸りながら歩いていたせいか、隣で歩いているはずの少年が、
 後方に遅れているのに気づくのが遅くなる。
「鋼の! 急がないと、辿り着けないぞ」
 ロイの声に、俯き加減の顔が上げられる。 わかったと言うように頷こうとしている様子を
 見せた次には、グラリとエドワードの身体が傾く。
「鋼の!!」
 驚いたロイが、踵を返して手を差し伸べるが、離れていた彼の身体は、地面の雪の中に吸い取られるように沈んでいく。
「鋼、鋼の!? しっかりしろ!!」
 雪塗れになった身体を抱き上げ、顔に張り付いた雪を払いのけようとして、
 燃えるように熱い額に、ロイの目が瞠られる。
 そして、意識の無くなっている身体を背負うと、出来るだけ早くにと、足を進めていく。
 兆候はあって、それに気づき、おかしいとは感じていたのに、急展開に気を取られ、
 失念していた。
 幾ら大の男が束になっても適わない子供とは言え、それはあくまでも錬金術師としての彼で、
 …実際は、14歳に手が届くかどうかの未熟な子供の身体なのだ。
 軍で訓練を積んでいる同行者のようには行くはずが無い。 それは出掛けに、
 ホークアイにも念を押され、聞かされていた事だったのに…。
 背負う身体が触れている部分が、服を通してもかなり熱いのを感じれば感じるほど、
 ロイの焦りと後悔は深くなっていく。
 エドワードの身体は、小柄な見かけによらず、結構な重さがある。背負って実感したが、
 それが幼さを残す彼が背負っている業の重さなのだと、改めて思い知らされた気がする。
 
 遠く長い距離にも感じられたが、実際は1時間程の行程だったはずだ。
 焦る気持ちが、時間を異様に長く感じさせるのだ。
 漸く目的の小屋が目に入ってくると、ロイは心底、胸の奥から安堵の気持ちを吐き出した。
 粗末な小屋には、たいした設備があるわけではないが、緊急避難用に最低の物が置かれている。
 …取り合えず火を熾し、暖を取らせないと…
 自身も濡れ鼠のようになってはいるが、そんな事に構う時間も惜しむように、
 ロイは悴む手で簡単な錬成陣を書き込んで、先に発火布を乾かしてしまう。
 次には暖炉にくべる薪の湿気を、指を閃かすと瞬時に乾かし放り込んでいく。
 そして、火を付けて、漸くホッと一息吐く。
 備え付けの棚を開けていくと、粗末な毛布を数枚見つけ、それを掴んで、
 横に休ませているエドワードの元へと近づいていく。
 そして躊躇いなく濡れた衣服を手早く脱がせていく。
 湿った衣服は体調の悪化を招く。 乾かすだけでなく、脱がせたほうが無難だ。
 この状態だと、熱が下がり始めた途端に、大量の汗を流す事になるだろう。
 濡れた衣服は脱がせにくい。 動かす指が悴んでいるから尚更だ。
 それでも1枚1枚脱がせていき、肌着に手をかけた途端、ギクリとなって、
 指が悴みとは別に動かなくなる。

 色白い身体は細いと言うより、儚いと言った方が良さそうな位、頼りない。
 体術も得意の子供だから、鍛えてはあるのだが、筋肉が付いていると言うには、まだまだ贅癪なのだろう。
 そして……。 
 ロイの動きを止めたのは、そんな事だけではない。 
 細い肢体から、鈍色の手足が生えているのは痛々しいが、それだけでは…、それだけではなく。
 無残に傷跡が残る怪我痕跡の多さ…。
 
 ロイは唯、茫然と眺めるしかない。

 無傷では済まないだろうとは、ロイにも判っていた。
 が、頭で判っていた事と、それを目の当たりにして実感するのとでは、ショックは天と地程も違う。
 古く薄っすらと残るものから、まだ生々しい朱線を引いているもの。
 抉れたのか、引き攣った跡を見せるもの。 
 数様々な、彼の進んでいる道を示す傷跡…。
 
 そして漸く、自分が彼に示した道の過酷さを思い知ったのだった…。

 戦慄く唇が、声の代わりに震えを発してくる。
 愕然となっていたロイの意識を戻させたのは、寒さのせいで身じろぎしたエドワードだった。
 その動きに、熱の高い彼の衣服を剥いだ状態で、呆然自失していた自分の愚かさに気づき、
 慌てたように毛布で包んでやり、慎重に横たえる。 次には立ち上がり、建てつけの
 悪くなっている扉を僅かに開いて、必要なだけ雪を掻き集めてくる。
 そして、さっさと自分も衣服を脱ぎ捨てると、椅子に干しかけて暖炉の傍に置いておく。
 そして、慎重に子供の身体を抱え起こして、一緒に毛布に包まりながら、温かさを分け合ってやる。
 
 パチパチと火花が爆ぜる音だけが、室内に鳴り響いている。
 ロイは、じっと目の前の炎の揺らぎを睨みつけていた。 
 時たま、エドワードの唇に雪を持っていってやれば、乳児が母の乳を吸うように、
 チューチューと雪から水気を吸い取っていく。 常備していた解熱剤が効いてきたのか、
 一時よりも伝わる熱が下がってきた気がして、まずは一安心と思いたいが、
 下がる事で他の症状が現れてくる懸念があるので、気を緩めるわけにはいかない。




 
 外の風の音が止み始めている。 そろそろ吹雪も落ち着いてくるのだろう。
 天候不良の為に、日の出が遅く感じられるが、ロイの体内時計では、
 遅い冬の明け方を告げる時刻に近づいている。
 日が示す明かりが掲げられる前に、出来ればエドワードの体調が、もう少し落ち着いてくれればと願う。
 小降りになれば、追跡をかわすためにも、ここを離れなければいけない。
 そう思いながら、腕の中の子供に意識を戻せば、ぬるりと湿った感触が感じられる。
「発汗し始めたか」
 薬の効果が、漸く及ぶとこまで、熱が下がり始めているのだろう。 そうなれば、
 こまめに水分を補給させてやらなくてはと雪を丸めた物を口元に運んでやる。
 と、外気が感じられる程度には覚醒がしやすくなっているのか、ピクピクと瞼が震え、
 ゆっくりと瞳が開かれていく。
 真っ直ぐにロイを見上げてくる瞳から、視線を避けるように顔を背ける。
 今のロイの心境では、エドワードを直視する勇気がない。
「……」
 不思議そうに自分を見上げる視線を感じて、ロイは観念したようにエドワードに視線を戻して、
 声をかける。
「気分はどうだ?」
 ハァハァと忙しない呼吸をする唇から、掠れた声が呟かれる。
「…おじさん…、誰?」
 不思議そうな呟きに、ロイは瞬間眉を顰めるが、出来るだけ平静を装って、話を合わせていく。
「私は…、ロイ、ロイだ」
「ロ…イ?」
「ああ、そうだよ」
 たどたどしい口調は、エドワードを酷く幼く感じさせる。
「僕、知らない…よ? 母さん…、アル、アルはどこ?」
 脅えた視線を巡らせて、肉親の気配を必死に探ろうとしている。
 カタカタと震え出した身体に、ロイは瞬間拙いと感じる。
 高熱の所為で、意識が混濁しているのだろう。 そこに、怯えが加われば、
 間違いなく精神がパニック状態に陥っていく。 そんな人間を、ロイは嫌と言うほど見てきたのだ。
「落ち着いて、落ち着いて、エドワード、エド?
 大丈夫だ、二人から留守を頼まれてるだけだから、直ぐに帰ってくる」
 出来るだけ優しく話しかけながら、ロイは汗ばむ背中をあやすように撫でてやる。
「直ぐ? ほんとぉ? もう戻ってくる?」
 疑うことを知らない瞳が、懸命に伝えてこようとしていることに、
 ロイは辛抱強く返事を返して、繰り返してやる。
「ああ、直ぐだよ、直ぐだ。 エドはお兄ちゃんだから、留守番できるだろ?
 頑張って二人で良い子に待っていよう」
 ロイが言葉を繰り返す毎に、エドワードの気持ちが落ち着いてくるのが、表情から見て取れる。
「う…ん。 僕、待ってる… お兄ちゃん…だから」
 自分に言い聞かせるように呟く言葉に、ロイは偉い偉いと褒めてやりながら、
 うつらうつらしているエドワードが、ぽつりぽつりと話す言葉に、哀しみを感じながら聞いてやる。
 
 好きな食べ物。 好きな場所。 好きな人に、好きな表情。
 心惹かれる場所や、自分たち兄弟の隠れ場所。
 母が褒めてくれた思い出。 大好きな抱擁。

 エドワードが切れ切れに話す言葉は、脈絡もなく語られて行く。
 それは楽しい思い出ばかりで…、余計にロイを切なくさせる。
 弱っている意識が、自然と優しい思い出だけを浮かばせているのだろう。
 それは人の生存本能に基づくものだ。
 そうと判っていても……、今のロイには痛すぎる思いでの記憶たちだ。
 
 浮上していた意識が沈んでいったのか、今さっきまで話していたエドワードの口が、閉ざされている。
 掻き始めた汗は、今では噴き出すほど大量になっており、毛布の端で拭う傍から伝い落ちていく。
 額や頬は、驚く程熱いのに、身体は凍えているように冷たくなっていく。
 発汗作用のせいだが、それに伴って、身体の震えも一層酷くなり、瘧のように震え始める。
 ガチガチと歯の根を鳴らし始めるエドワードの様子を、ロイは注意深く見守る。
 この山を越せば、熱は一気に引き始める筈だ。 ギュッと、抱く腕にも力が籠もる。
 そしてそれが引き金になったのか、エドワードはカッと目を見開くと、獣のような唸り声を喉から搾り出す。
「うー…、う・・ぁっ…  返せ…、アル、…アルを返…せっ」
「エドワード、しっかりしろ! 目を覚ますんだ!」
 ロイの声や、宥めるような揺さぶりも、今のエドワードの注意を引く事が出来ないままになる。
「返せ…、たった独りの…俺の弟ぉー!」
 慟哭のように、悲痛な叫びが上げられる。
 ロイはもがく身体を、必死に抱きしめる。 そう…、まるで手から飛び立つのを防ぐように。
 動けない不自由な身体に気づいたのか、エドワードの抵抗は小さくなるが、代わりに哀しげな声が吐きだされ続ける。
「かぁ…さん   かぁさん、…どうして? かぁさぁん…」
 汗と一緒に伝い堕ちる雫を、ロイは唇を噛み締めて、見るしか無い。
 エドワードの母を呼ぶ声は、今のロイにとっては、怨嗟の声のように響き、胸を深く抉っていく。
「い…やだ。  こんな、…こんな筈じゃ…。 違うんだ…違う。
 俺は……俺は…… 殺してない! 母さんを殺してなんか!!」
「エドワード!!」
 咄嗟にかけた声は、彼の慟哭のように上げられた悲鳴に掻き消される。
「うっ、うっー  うっわぁー!!」
 この弱った体の、どこにこんな力があったのかと思わせる程の勢いで、
 ロイを跳ね除けようともがきだす。
「エドワード!! 落ち着け、落ち着くんだ!」
 押さえ込む力を強くしていくロイに、エドワードの抵抗はますます強くなる。
 耳を塞ぎたくなる叫び声を、喉が裂ける勢いで上げ続けると、次の瞬間大きく開いた口から音が止まる。
 その次に来る事を予想した、ロイの行動は素早かった。
「ぐっ!!」
 痛みに歯を食いしばりながら、ロイが呻く。
 痛みの元凶は、エドワードの口に中に差し込んだ指だ。
 数度痛みを堪える浅い吐息を吐き出すと、ロイは出来るだけゆっくりと、エドワードの身体を起こし、
 無理ない体勢で前に屈ませる。
「鋼の、大丈夫だ。 しっかりしろ…。 君には帰りを待つ弟が居るだろう?」
 優しく言葉をかける合間にも、エドワードの口からはロイの血が滴り落ちている。
 身体を屈ませたおかげで、血飛沫がエドワードの喉を詰まらせる事も無い。
「弟の為にも、無事に戻ろう」
 ギリギリと噛み締められる痛みに冷や汗を流しながらも、ロイは懸命にエドワードに話しかけて行く。
 そうして暫くすると、ふと指の痛みが和らぐ。
 弱弱しく顔を上げたエドワードの口元が、ロイの血で染まっているのを、ロイはそっと拭ってやる。
「アル…。 俺、戻らなきゃ…」
「ああ、そうだ。 君は戻らないといけない、君の帰りを待つ人が居る限り…」
「そうだ…、あいつが待っている・・俺を……」
 その言葉を最後に、エドワードがカクリと頭を倒す。
 ロイは自身の額に噴き出す汗を拭って、一息吐くと、窓の外の景色に視線をやり、
 暫くしてからエドワードの容態を窺ってみる。
 ―― 峠は越したようだな ――
 熱は依然高いようだが、呼吸が安定して、頬に赤みが戻り始めている。
 が、衰弱が激しいのは変わらない。 出来るだけ早く、処置出来る場所へと連れて行った方がいい。

 そう判断したロイの動きは素早かった。 乾き始めた衣服を、錬金術で完全に乾燥させると、
 手早く着こんで、エドワードにも着せていく。 二人の持ち物は、後で回収させようと、
 錬金術で作った隠し扉に放り込んでおく。 
 そして、毛布で包み直したエドワードを背負い上げると、もう1枚使ってすっぽりと頭から被せて、
 端を自分に括り付ける。
 雪は完全には止んではいないが、止むのを待っていては危険度は高くなる、
 とロイは外へと足を踏み出していく。
 
 その後、やはりと言うか、ホークアイが寄越していた偵察隊と途中で合流すると、
 ロイは麓までの案内と、その後の病院への搬送の手はずを指示していく。

「マスタング大佐、 鋼の錬金術師殿は、私がお預かりします」
 そう申し出てくれる兵士に、ロイはきっぱりと首を振り、断りを入れる。
「いや、この子は私が麓までおぶっていく。 
 折角容態が落ち着いたんだ、また冷たい思いをさせるのは忍びない」
 そう尤もらしい理由を口にしながら、ロイは自分の心境の不可思議さが判らない。
 はっきり言って、疲れているのはロイも同様だ。 夜間の強行軍に、
 病人相手で神経が張り詰めたままだったのだ。
 身体が鉛のように重く、自重さえ酷く億劫に感じると言うのに、
 どうしてその上、意地を張ったように、この子供を背負っているのだろう…。 

 罪悪か、哀れみか…。
 
 そう考え始めて、軽く首を振って思考を払う。
 そんな事を思う資格など、自分には無いと言うのに……。

 それでも今はまだ、この子供を他人には触れさせたくない。
 それがロイに判った、たった一つの真実だった。





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